■『パラダイス銀河』とジョブズ、その数奇な運命。

「パラダイス銀河」って曲をご存知ですか?
 おっと、人をバカにした質問でしたね。知らないはずがない。なにせ国民的アイドル「光源氏」の代表曲ですからね。
 念のため説明しますと、「光源氏」とは平安時代から平成にかけて活躍したアイドル集団です。時の皇帝の息子として生まれながら、その美貌ゆえ、ジャニーさんに「YOU、光ってるね」とスカウトされ、芸能活動を始めました。
 「パラダイス銀河」は彼の代表曲。作詞は飛鳥時代を代表するアーティスト・蘇我馬子が担当しました。民の平穏と永遠の平和を願い、当時伝来したばかりの仏教思想を詩に取り入れてます。3億枚売れました。当時の人口は5000万人足らずですから、その凄さがわかるでしょう。法隆寺で行われた200万人ライブは今でもレジェンドとして語り草となっています(最近、DVDボックスが発売されたので蔦屋に行けば借りられるはずです)。
 「パラダイス銀河」の詩はこんな風に始まります。

ようこそここへ 遊ぼうよパラダイス

 何ということでしょうか。この詩において源氏は私たちが住むべきパラダイスは遊び場であると、プレイグラウンドであると高らかに宣言しています。それまで主流だった儒教の教えから明らかに背き、「カウンター」を食らわしているのです。さながら、日本版「アンチクライスト・スーパースター」といったところでしょうか(マリリン・マンソンが源氏の影響を受けていたとする学説もあります)。
 続きを見てみましょう。

胸の林檎むいて  
大人は見えないしゃかりきコロンブス
夢の島まではさがせない

「リンゴ」とは何を指しているのでしょうか。これまでの学会では聖書においてアダムとイブが食べたという「知恵の実」のことを指すという説が主流でしたが、しかし、この説には難点があります。
 なぜ仏教思想を歌った「パラダイス銀河」に聖書からの引用があるのか。それを説明することができないからです。また、歴史的に見ても無理があります。この頃の日本にはまだ「キリスト教」などというハイカラなものは輸入されていなかったからです。キリスト教が日本でも知られるようになったのは戦後のことで、「洗練されたアメリカ文化」として白物家電とともに輸入されてきました。
 ここはもう一度、前行の「遊ぼうよパラダイス」に注目しましょう。この言葉から分かる通り、この歌は「パラダイス」、つまり極楽浄土へ行こうよと歌っています。ということは、その後の歌詞も極楽浄土のことを指しているはずです。
 しかし、極楽浄土はこの世にありません。徳を積んだものだけが死後に行けるところです。未だ訪れない死後の世界……つまりこの歌は「未来」のことを歌っていると言えます。この歌は未来を予言した歌なのです。
 そう考えると、視界が一気に開けていくのがわかるでしょう。そうです、「林檎」とは今は亡きスティーブ・ジョブズが創設したアップル社のことです。
 「大人は見えないしゃかりきコロンブス」の意味も自ずとわかります。ジョブズの座右の銘は「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」でした。これは日本語訳すると、「貪欲であれ、愚直であれ」となります。つまり、「若くあれ」ということです。ジョブズは若くあろうとしました。「大人は見えないしゃかりきコロンブス」とは、若さを失った旧世代には理解できないジョブズのことを指しています。「週90時間、喜んで働こう」とホワイトボードに書き、世界にない斬新なプロダクトを開発しようと働きまくっていたジョブズは、まさに「しゃかりきコロンブス」ですね。余談となりますが、この思想は同時代人のスーパースターの多くが共有しています。例えば、現代を代表する思想家の秋元康。彼の主著である哲学書『アニメじゃない』は「大人は誰も笑いながらテレビの見過ぎと言うけれど僕は絶対に嘘なんか言っていない」「常識という眼鏡でぼくたちの世界はのぞけやしないのさ。夢を忘れた古い地球人たちよ」と大人になることへの危険さを警告しています。ちなみにこのフレーズは論文における被引用数が世界一であり、ギネスブックにも載っています。また、20世紀の詩史に燦然と輝く詩人集団のラモーンズさんは「I don't want to grow up(大人になんかなるものか)」と叫び、世界中の共感を得ました。先日、齋藤孝さんが『超訳・ラモーンズさん』を出版したので、そこから彼らの存在をを知った方も多いでしょう。彼らの詩はいつ読んでも瑞々しく、透明感に溢れていて、時代を越えたマスターピースとなっています。
 本題に戻りましょう。「しゃかりきコロンブス」のあとは「夢の島まではさがせない」と続いています。
 「夢の島」とはアップルストアのことでしょう。「さがせない」というのはどういうことかと言いますと、これは批評家のエドワード・サイードが指摘したことですが、銀座のアップルストアの場所がわかりにくいことを指しています。
 ジョブズが「禅」の思想に傾倒していたことは有名です。毎日、お風呂にも入らず座禅を組み、瞑想に励んでいました(ただし、最近になって新たな資料が発掘され、実は友人に注意されて入浴していたことが判明しています)。
 また、60年代のカウンターカルチャーに思い入れが深かったことでも知られています。先ほど挙げた「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」という言葉も、もともとはヒッピーたちの教典だった「ホール・アース・カタログ」に書かれていたものです。
 現代の私たちは、60年代のカウンターカルチャーが敗北に終わったことを知っています。そして、その思想を引き継いだジョブズは成功したこともわかっています。両者の違いはどこにあったのでしょうか。
 まず、60年代のカウンターカルチャーが謳ったこと、思想の核となる部分は何でしょうか。それは「精神の拡張」です。精神を拡張させ、人間を次なるステージへと引き上げようとしたのです。そのためにLSDを吸引しました。ビートルズもLSDも吸っていました。LSDでトリップし、神秘的な体験をすれば、人間の視野が広がって、最終的には世界平和に繋がると信じていました。
 しかし、幻覚剤を摂取してトリップするというのは、極端に言ってしまうとお酒を飲んで酔っ払うことと変わりありません。
 「お酒を飲んで世界を変えよう」なんて主張する人はいませんし、賛同する人も出てこないでしょう。しかし、ヒッピーたちはそれと同じようなことをやってしまったのです。時代の空気がそうさせたのです。結果、自滅してしまいました。
 ジョブズは違いました。彼は「拡張」というヒッピーが持つ思想のコアだけ引き継ぎ、方法論をまったく変えたのです。ヒッピーが脳内の拡張に精を出しましたが、ジョブズは「コンピュータ」の拡張へと向かいました。それがマッキントッシュであり、アイフォーンです。そうすることで「ネットワーク」が拡張され、ついには個人個人の「精神」の拡張にも至ってしまったのです。
 ジョブズは世界を「パラダイス」にしようと働き続けました。ぼくもそのビジョンを引き継ぎ、「夢の島」をたくさん作ろうと思っています。ジョブズのように働きたい。ジョブりたい。積極的にジョブっていこうと思っています、ぼくは。

■「坂本龍馬」だらけの日本。真のイノベーターは誰か?

現代は激動の時代だと言われています。ネットワーク環境が整い、物理的な距離は壁じゃなくなりました。これによって、ミクロな視点では個人間のコミュニケーションが容易になり、マクロな視点ではビジネスでの競争相手を全世界に広げました。「グローバルな人材」にならなければ生き残れなくなると言われています。
 これと同時に、日本の経済状況がいよいよヤバくなってきました。不況が長引き、デフレが深刻化し、目も当てられないほどの格差が広がっています。
 このような状況を幕末の時代に例えている人は多いです。菅元首相はTPPへの交渉参加を「開国」と表現していました。国内に閉じこもるのをやめて、日本を世界対応にしなければいけないという状況が、幕末に似ているというわけですね。
 この例えにならって、ソフトバンクの孫正義さんは「現代の坂本龍馬」だと言われています。リスクを怖れずに挑戦し続ける姿が、まるで坂本龍馬のようだということです。
 また、大阪市長の橋下徹さんは坂本龍馬の「船中八策」を意識した「維新八策」を発表しました。橋下さんも「現代の坂本龍馬」と言われているのを見たことがあります。リスクを怖れずに挑戦し続ける姿が、まるで坂本龍馬のようだということです。
 現代の日本には、坂本龍馬がたくさんいます。ビジネス雑誌を開けば、多種多彩な坂本龍馬が紹介されています。金髪の坂本龍馬、現代哲学とオタク文化に詳しい坂本龍馬、教師役をやり続けているうちに役と自分の区別がつかなくなった坂本龍馬……。
 しかし、これだけの坂本龍馬がいるのに、日本の経済は一向に上向きになりません。
 そもそも坂本龍馬とは何を成し遂げた人なのでしょうか。先ほども述べたように、龍馬は「船中八策」という優れたビジョンを発表したことで知られています。ですが、これは発表当時はまったく相手にされなかったのです。後になって再発見され、その先見性が明らかになりましたが、少なくとも龍馬が生きているときには何のインパクトも残しませんでした。龍馬が生きているうちにできたのは、薩摩藩と長州藩の間に立ち、薩長同盟を取りまとめたことです。つまり、龍馬は調整役に過ぎないのですね。
 今の日本が龍馬だらけということは、調整役しかいないということです。これでは良くなりようがありません。実際に行動に移す桂小五郎や西郷隆盛がいなければ、何も状況は変わりません。
 日本にイノベーターが現れないのは、この妙に坂本龍馬を有難がる風潮が原因の根底にあるのではないか、私なんかはそう思うわけです。イノベーターというのは今までにないものを作り上げる人のことを言います。今までにないものは、調整からじゃ生まれようがありません。
 しかし、そんな日本にも少ないですが真のイノベーターはいます。
 篠崎愛さんです。彼女はロリ顔にFカップの巨乳という、いままでにない組み合わせをこの世に実現させました。多くの男性が彼女の虜になるのは、そこに圧倒的な革新性を見出しているからなのですね。
 篠崎愛さん生きる現代アートなのです。ピカソは「マリー・テレーズの肖像」で女性の顔を徹底的に崩して描きました。これは複数の視点から捉えた女性の顔を平面の絵にしてしまったもので、どこがすごいのかというと、それでも女性の顔に見えてしまうという、アンバランスさのなかで驚異的なバランスを取っているところなのです。そのあり得ない造形が人々を驚かせたのですが、篠崎愛さんも同じです。ロリと爆乳という普通ならあり得ない組み合わせを三次元に実現しました。ジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター』も圧倒的な3D造形が話題になりましたが、篠崎愛さんの造形力には負けます。しかも、アバターに出てくるヒロインはあまり可愛くない。異星人ですから。肌が青いですからね。その点、篠崎愛さんは肌が肌色だし可愛い。世界的に大ヒットした『アバター』を超越している篠崎愛さんは、やはり真のイノベーターであると言っていいでしょう。
 スティーブ・ジョブズさんが篠崎愛さんを見たら、すぐにでもデートに誘うでしょう。彼は「愚直」かつ「ハングリー」であろうとしましたからね。事実、彼は奥さんのローレン・パウエルさんと出会った際、そのあとの予定をすべてキャンセルして彼女と食事をしたと言われてます。おそらくローレンさんにもイノベーションの輝きが、イノベーションの後光が指していたのでしょう。女性はビジョナリーなイノベーションでどんどん綺麗になるものです。この前、ananという雑誌でもそういう特集がありました。
 ジョン・レノンはビートルズ時代に『愛こそがすべて』という曲を書いています。優れた詩人である彼は、その直感で篠崎愛さんの到来を予感していたのですね。
 私は先日の自民党総裁選挙で、彼女を推薦する人がいないのを不思議に思いながら、その様子を眺めていました。私が政治家なら間違いなく彼女を推薦するからです。現代日本において、彼女のイノベーション度は群を抜いています。誰もが龍馬のような「調整役」に回ってしまうので、誰も前例のない挑戦をしないのです。訳知り顔で「誰が総理になっても同じだよ」と言うくらいなら、彼女にチャンスをあげてもいいのではないかと、私なんかは思うんですがね。
 どうも今の日本にはリスクを取って挑戦しようという人がいません。私は違います。リスクを取ります。覚悟を持って、篠崎愛さんを総理大臣に推薦します。それこそが日本のためになるんだと、その姿こそが真のイノベーターであると、ロジカルに直感しています。

■AKB48は「可愛い」。でも……。

「可愛いは正義」って言葉がありますよね。確かダライ・ラマ三世の言葉でしたか。現代社会の危険な風潮として、可愛いければ何でも許される、チヤホヤされる、というものがあります。
 その空気を見事に切り取ったのが、某消費者金融のCMでした。このCMでは娘にチワワが欲しいとせがまれたお父さんが、最初は断るのですが、あまりにもチワワのつぶらな瞳が可愛いので、消費者金融でお金を借りてしまうという内容です。人気CMだったのか、いくつかシリーズが作られていたので、ご存知のかたは多いでしょう。
 このCMはとても鋭いです。現代の日本人の行動が、「可愛い」によってコントロールされてしまっていることを象徴しているのです。否定神学的に現象学的直感で小泉改革以後のサバイブ感溢れる状況を見事に象徴したのですね。
 例えば、CDが売れなくなったと言われて久しいですが(最後にミリオンが出たのは1520に発売されたマルティン・ルターの『教会のバビロニア捕囚』です)、それでも売れているのは、AKB48と嵐です。
 AKB48というのは可愛い女の子が48人も集まり、歌って踊って競い合うという、アイドルで週刊少年ジャンプをやっているような集団です。特典付きのCDを一人が何百枚も買ったりしていて、「それってどうなの?」という声があがったりしていますが、購入してしまう人は某CMのお父さんのように可愛さのあまりにやってしまうのですね。
 嵐も性別こそは男ですが、彼らは「カッコいい」というよりも「可愛い」といった趣があります。このように売れているたった二組のアーティストがどちらも可愛いを売りにしているというのは、非常に象徴的です。象徴的すぎて、私なんかはビックリしてしまうわけですね。「ここまで象徴していいのか」と驚愕してしまったわけです。
 そういう視点で日本を見回してみると、そこら中で「可愛い」が私たちの世界を支配していることがわかります。
 日本のアニメはすごい、と言われていますが、どこがすごいのかというと、キャラクターが可愛いのです。「あんな女の子いないよ」と言ってしまうのは野暮で、「可愛い」を純粋に追求していった結果、カラフルな髪型と大きな目、幼児体型というものに至ったわけです。それを「あんなのいないよ」と言っても、「いないから作ったんじゃないか」と返されるだけです。
 世界から注目されているポケモンにしろキティちゃんにしろきゃりーぱみゅぱみゅにしろ、可愛いからウケているのですね。ぱみゅぱみゅなんかは、顔がサンショウウオに似ていて、とても愛嬌があります。井伏鱒二が生きていたら、きっと小説にしてくれることでしょう。
 このように今の日本では「可愛い」による王権君主制がしかれています。「可愛い」によるアーキテクチュアルな環境支配がどんどん進んでいっているのです。これが良いか悪いかは25世紀の歴史家が判断することですが、私なんかは「なんだか居心地が悪いなあ」と感じてしまうのですね。人間には色んな感情がありますが、それがすべて「可愛い」に収斂されていってしまっているというのはとても寂しい。
 幸か不幸か、私はまったく可愛くありません。カッコよくもありませんが、「哀れだね」と言われたことはあります。国がひとつの方向に向かっていっているというのはある種の危険信号(アラーム)であることは、歴史を見ればわかります。天邪鬼と言われたらそれまでですが、「それってどうなの?」とツッコミを入れるブレーキ役がいなくてはとんでもない誤ちを犯してしまうんじゃないか、そう感じる日々の私なのです。
「誰かブレーキ役になってくれないかなあ。そういう人がいれくれたらなぁ」
 そう独り言を言いながら、ダージリンティーをごくごくとジョッキで飲んでいると、頭上から光が差し、大天使ミカエルが降りてきて、こう言いました。
「キミがやるんだよ」
 そう言われたら私なんかは「そうなのか」と素直に受け入れる性格なのですね。そういう抜群の素直さがある。
 私はこの「可愛い過剰社会」に、上流から下流に流れてくるものがすべて「可愛い」な時代に、 戦いを挑もうと思っています。それは孤独な戦いになるのかもしれない。風車に立ち向かうドン・キホーテのように見えてしまうのかもしれない。でも、誰かがやらなきゃいけないんですね。未来のために。子どもたちのために。

■プレイステーションのように真摯であれ。

人から「iPS細胞とはなんですか?」と聞かれたら、私は「わかりません」と答えます。なぜなら私はソクラテスを幼少期からマキシマムリスペクトしており、「無知の知」というものをわきまえているからです。ただし、「次の四つの中から選択せよ」と続くのならば、その限りではありません。私はとりあえず「(1)」にマークするでしょう。前問、前々問と「(1)」が続いているのならば、ひょっとしたら「(2)」にマークするかもしれませんが、それは瑣末な問題です。
 「ソクラテスは分からない問題をテキトーにマークするのか?」というのは現代哲学では重要な問いで、「マークシートのハードプロブレム」と呼ばれています。この問題に脳科学的に挑戦しているのが、皆さんもご存知の茂木健一郎さんです。茂木さんの現時点での回答は「クオリアを感じた場所にマークするはず」というものですが、詳しくは彼の著書を読んでください。
 さて、iPS細胞です。この言葉を具体的に説明せよ、と求められたら私は口を閉ざすしかありませんが、しかし、その言葉が成り立ちについては、幸か不幸か、耳にしたことがあります。
 命名者の山中伸弥教授は「iPS細胞」の「i」は「iPhone」の「i」だとどこかで答えていました。彼はジョブズが引き起こしたスマートフォンにおけるイノベーションを、真摯にリスペクトしていたわけですね。そして、自らがやっている研究もそれに匹敵するイノベーションになるはずだと、頭文字に「i」をつけたのです。同時に『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の「愛」ともかけているようで、この地に生まれた愛すべき人々が救われるように、という願いが込められているそうです。
 では、「PS」は何を指しているのでしょうか。これについて、山中教授は沈黙を守っています。しかし、簡単に読み解くことができます。「i」が小文字なのが意図的であるように、「PS」が大文字になっているのも意図的なものでしょう。大文字の「PS」といったら、何があるでしょうか。その可能性の限りを世界第3位のスーパーコンピューターの「京」で計算したところ、「プレイステーション」しかありませんでした。
 つまり、「iPS細胞」とは「私のプレイステーション細胞」のことなのです。
 なぜ山中教授はプレイステーションを引用したのでしょうか。その謎はプレイステーションとはどういう存在だったのか、ゲームの歴史を踏まえながら哲学すると見えてきます。
 プレステ以前のゲーム機は任天堂の一人勝ちでした。なぜ任天堂が一人勝ちしていたのかというと、質の高いゲームソフトばかりだったからです。それを実現したのが任天堂による厳しい品質チェックでした。任天堂がメーカーのゲームを審査し、「まだその域に達していない」と判断すると発売を許されないわけです。
 最初はそれも上手くいっていました。しかし、ゲーム機がファミコンからスーパーファミコンに進化し、ユーザーがヴィジュアルの綺麗さやストーリーの重厚長大さを求めるようになると、上手く機能しなくなります。ソフト一本に膨大な予算と製作期間が必要になり、さらに厳しい品質チェックまでされると、ソフトメーカーは冒険できなくなってしまいます。その結果、前例の踏襲ばっかりしてしまい、ソフトの値段が高いうえに目新しくもないゲームが量産されることになったのです。
 そこへ登場したのがプレイステーションでした。プレステは豊富なライブラリをメーカーに提供することで、ゲーム制作の敷居を大きく下げました。それまでゲームを作ったことのなかったメーカーが、次々と参入してきました。つまり、多様性が生まれたのです。敷居が下がり、市場が盛り上がると、実験的な作品もリリースできるようになります。「音ゲー」というジャンルを定着させた『パラッパラッパー』なんかはその筆頭でしょう。コンビニで購入できるようになったのも大きいです。テレビゲームは「子供向け」「オタク向け」のものから、「広く若者向け」のものへと変化しました。
 おそらく山中教授はプレイステーションのヘビーユーザーで、多くの人がそうであるように、「ポリゴンってカクカクしていて変だよね。でも、これが最先端らしいからしょうがないか」と思っていたのではないでしょうか。そして、プレイステーションの多様性へのリスペクトと、多くの楽しい時間を提供してくれたことへの感謝から「iPS細胞」と名付けたのでしょう。世界第3位のスーパーコンピューターの「京」に「そうなの?」と聞いてみたら、「そうだよ」と返ってきたので間違いありません。
 山中教授と同じように初期のプレイステーションを愛している私は、多様性こそがイノベーションに繋がるんだと信じています。多彩な人間が集まることが、いいクリエイティブの条件だと確信しています。
 それはシルベスタ・スタローンが脚本・監督の『エクスペンダブルズ』を見れば確定的に明らかです。この映画にはシルベスタ・スタローンを始め、ブルース・ウィリスやジェット・リー、マット・デイモンなどの主役級のアクションスターが揃っています。私も見るまでは「キャラを食い合って消化不良になるんじゃないの?」「大味で期待はずれなんじゃないの?」と心配していましたが、これが22世紀に残したいと思える大傑作でした。世界第3位のスーパーコンピューターの「京」に「そうだよね?」と聞いてみたら、「うーん、ぼくの好みには合わないけど、好きな人は好きなんじゃないかな」と言われ、呆れ果ててしまいました。コンピュータは芸術のことがわからないものです。
 私は人間ですので、芸術のことがわかります。多様性がいいアートを生み出す土壌になることもわかっている。そして、高校を中退しています。私が企業に入ることで多様性を生み出し、業績を大幅にアップさせることでしょう。人は「大幅アップは言い過ぎじゃないの?」と言うかもしれません。そう言われると、私なんかは「確かに言い過ぎました」と口にするでしょう。それが経営学の巨人・ドラッカーも言っている「真摯であれ」ということなのです。

■抵抗の文学──黒田夏子とソクラテス

第148回の芥川賞を、史上最高齢の黒田夏子さんが受賞したと聞いて、私はすぐさま「カッコいい名前だな」と思いました。英語にすると「ブラックファーマー・サマーチルドレン」です。なんだかSF小説のタイトルのようではありませんか。
 私なんかは並外れた文学的素養を持ちあわているので、芥川賞の発表をニュースで見たりすると、「なんか話題になっているみたいだし、読んでみようかな」と思います。しかし、一読して驚きました。
 読みにくいのです。
 横書きで、ひらがなも多用し、固有名詞も徹底的に廃している。これでもかというぐらいに読みにくくしているのですね。ああ、日本文学もここまで来てしまったか、と私は感慨深くなりました。芸術というのは突き詰めるとどのジャンルもこうなってしまうのです。あれはぼくがまだニューヨークにいた頃のことでした。仲間たちと安いガレージを共同で借りて、一緒にモノ作りしていたわけですね。みんな若かったので、当然のように貧乏でした。
 中でもイヴ・クラインくんは群を抜いていて、みんなでLSDを吸引しているときでも、「あ、もうすぐタイムセールだからちょっと行ってくるわ」と抜け出していました。ウォーホルくんは「あいつ、せっかくみんなでLSDを吸っているのに、空気読めないやつだよな」と陰で言っていました。私なんかは「ディオのザ・ワールドを習得したら、永遠のタイムセールを体験できるんだよな」などと考えていましたが、それは今になっても実現できていません。
 クラインくんは次第に制作費も捻出できなくなり、ある日憂いを帯びた濡れた目をして、私に「もう絵の具が青しか残ってないよ。これを使い切ったら、俺の芸術家人生はオシマイさ」と、ウイスキーの氷をくるくると回しながら、つぶやいていました。私は彼の悲壮感溢れる背中に圧倒され、何も言うことができませんでした。ただハムスターがヒマワリの種を食べる様子を物真似しながらスニッカーズをかじる、という行動を繰り返すしかりませんでした。頭のなかも真っ白になり、何を聞かれても「へけけ。ぼくたちは友達なのだ!」と答えることしかできませんでした。そんな私に助け舟を出してくれる人がいました。大天使ミカエルです。大天使ミカエルは壁にかかったジャズのレコードジャケットに目をやりつつ、葉巻を吹かしながら「だったらその絵の具をキャンバスいっぱいに塗りたくればいいんじゃない?」と言いました。クラインくんは「そんな絵になってない作品を売ることなんてできないんじゃない?」と半信半疑でしたが、大天使ミカエルは久米宏のような半笑いで「いいよ、いいよ、やってみろよ」と言いました。そして、これが爆発的に売れて、クラインくんは一気に大富豪になったわけですね。
 なぜ売れたのか。それは絵画を否定した絵画だったからです。クラインくんはキャンバスを青い絵の具でただ塗りつぶしました。それを絵画だと言い張って売り出すところが、パンキッシュでクールに見えたのです。実際、クラインくんのこの絵を目の前にした多くの人はベレー帽をかぶり直し、オシャレに整えたアゴヒゲをなでながら「なるほど、そうきたか」と、ニヤニヤと半笑いで感心するわけです。その半笑いは大天使ミカエルの半笑いと同じです。横を見ると世界第3位のスーパーコンピューターの「京」も笑っていました。
 その後、クラインくんとは会っていません。親の仕事の都合でクラインくんが引っ越すことになったのです。クラインくんのお父さんは飛行機のパイロットで、転勤族だったわけです。ニューヨークを離れる前日、友達のみんなで集まって椅子取りゲームをして遊びました。そのなかには偶然にもチャールズ・イームズくんもいましたね。彼はこのときに椅子にうまく座れず、それがきっかけで「座りやすい椅子とは何か」と徹底的に考える契機となったのです。二人とも元気にしているだろうか。
 さて、なぜ私は黒田さんの小説を読んで、上記の甘酸っぱい青春エピソードを思い出したかというと、それが「文学に抵抗している文学」に思えたからです。あらゆる芸術は、「表現形式そのものを否定する」というところに至ってしまうのです。
 例えば、音楽ならジョン・ケージがいます。彼の音楽は三歳の赤ん坊が聞いてもさっぱりわからない。しかし、知識豊富でコンテキストを理解した教養人が聞くと、「なるほどね」と半笑いでニヤニヤするのです。その半笑いは大天使ミカエルの半笑いと同じです。久米宏さんの半笑いはたぶん癖ですね。
 黒田さんの小説は、さながら絵画における印象派です。モネやマネなどに代表される印象派は、見たものをそのまま写実的に描くのではなく、作家の内面の印象を絵に反映させました。傘をそのまま書くのではなく「天からふるものをしのぐどうぐ」と表現する黒田さんは、日の出をそのまま描かなかったモネのようです。
 黒田さんの登場を絵画の歴史になぞらえるならば、次に出てくるのはピカソのキュービズムです。先ほども述べたように、ピカソの絵は女性の顔を徹底的に崩しながら、それでも「女性の顔である」と見たものに思わせる絵を描いていました。文学にこれを置き換えるのならば、「日本語として崩れているのに、日本語として読める」というものです。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の
けゅきんう の けっか にんんげ は もじ を にしんき する とき
その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という
けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を
いかれえて あまりす。どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?

 これがどういう意図の文章なのか、そのまま読めば理解できるので、解説はしません。私が一つだけ言えることは、これが紛れもない「日本語として崩れているのに、日本語として読める」文章だということです。
 なので、次の芥川賞はケンブリッジ大学に与えられるか、あるいはこれをフィクションの手法に落とし込んだ人が受賞するでしょう。
 では、誰がフィクションに落としこむ役割を担うのかというと、私はそれが東野圭吾さんに違いないと、そう思うわけですね。根拠はありませんよ。根拠はないんですが、やたらと東野圭吾さんの名前を聞きます。文学部の女子大生に「好きな作家は?」と聞くと、99%が「東野圭吾」と言うわけです。私なんかは文学的素養がものすごいですから、「いっぱい名前を聞くからすごい人なんだろうなあ」と思うわけです。
 このように医学の最前線はiPS細胞ですが、文学の最前線は黒田夏子さんです。そして、そこを激しく追走する存在が、私なのです。前衛を怖れず、多様性を愛し、ひたすら頭を働かせることが、イノベーションに繋がるのです。「イノベーションに繋がって、どんな良いことがあるの?」と聞かれると、私は「わかりません」と答えます。ソクラテスもきっとそう言うでしょう。大天使ミカエルは半笑いで、世界第3位のスーパーコンピューターの「京」はこれからお風呂です。

■イルカのように。スギゾーのように。

ロックバンド「ルナシー」のギタリストであるスギゾーさんが、雑誌のインタビューでこう答えてました。「ぼくのギタープレイはイルカの泳ぎ方を参考にしている」と。私なんかは音楽的素養が抜群で、歩く音楽的素養みたいな人間ですから、スギゾーさんの発言を聞くと、「なるほどな」「うんうん、わかるわかる」と思うわけです。
 なぜなら、かつて私はイルカとなって海を泳いでいたことがあるからです。「え、前世がイルカだったの?」と思うかもしれませんが、違います。確かに私の前世は蘇我入鹿ですが、入鹿は人間ですので、また別の話です。私は『アクアリウムの休日』というゲームで、イルカの遊泳を疑似体験したわけですね。このゲームはイルカとなって海を自由に泳ぐというだけのものでした。プレイステーションの多様性が生み出した変なゲームです。これがとても気持ちよかった。
 スギゾーさんが言っているのは、イルカの自由な泳ぎっぷりのことでしょう。当然のことながらイルカにはスケジュールはありません。残業はもちろん、営業のノルマもありませんし、試験も何もない。イルカは自分が泳ぎたいように泳げます。スギゾーさんも弾きたいように弾く、というプレイスタイルなのでしょう。
 私もイルカのように多様性の海を泳いでいきたいですね。ダイバーシティボーイとなって、あらゆる人種・性格・価値観の人々と切磋琢磨していきたい。大阪市長の橋下徹さんもよく「切磋琢磨」という言葉を使いますが、私はその10倍言うことをここに誓います。それが私の言える唯一のマニフェストです。「マニフェストって、そういう意味だったっけ?」と聞かれたら、私は「わかりません」と答えます。久米宏もきっとそう言うでしょう。
 戦後を代表する芸術家の岡本太郎さんは生前、「日本美術の氷河期を終わらせる」と豪語していました。それを聞いて私なんかはこう思うわけです。「岡本太郎さんはカッコいいなあ。やっぱり芸術家は言うことが違うなあ」と。チワワもそう思うでしょう。

──2013年の新春、ニューヨークのダコタアパートにて。たべっ子どうぶつをつまみながら。